壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器。現在では壺屋地区の都市化により壺屋地区の釜はほとんど電気釜となっている。
琉球王朝時代
琉球王朝は古くから交易が盛んで、東南アジア方面との交流が活発だった。そのとき、流入してきたのが南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器であり、琉球では主に酒器などを自足するため技術を学び、自国で焼き始めたといわれる。
しかし、1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵攻、薩摩藩に占領されるとともに、交易でも様々な制約を受ける羽目になった。そこで、17世紀に琉球王朝の尚貞王が産業振興目的で、地方に分散していた幾つもの窯場を市街の一角に固め、ヤチムンと呼ばれる焼き物街を作った。これが壺屋焼の草創である。そして薩摩で技術指導していた朝鮮陶工らを招き、焼き物の発展指導を促した。1671年には平田典通を中国に派遣、赤絵の技術を学ばせた。こうして壺屋焼は琉球随一の窯場として国内消費は勿論、外国との交易に一役買ったのである。なお、壺屋はヤチムンをそのまま日本語に訳した地名であり、沖縄が日本に支配された時名付けられた地名である。
明治?昭和初期
明治に入ると壺屋焼は危機を迎える。本土、特に有田から安価な焼き物が大量に流入することになったからである。だが、そこに民芸運動の第一人者であった柳宗悦、浜田庄司らが来訪し、郷土の陶工、後に県下初の人間国宝にもなった金城次郎や新垣栄三郎らを指導し、技術を研磨させた。また、美を追究した民芸陶器として壺屋焼を東京や京阪神などに情報発信したことにより、壺屋焼は人気を仰ぎ、廃絶を免れた。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らに因るところが大きい。彼らは「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性を兼ねた日用雑器に光を照らした者たちであるが、とりわけこの壺屋焼には、本土にない鮮やかな彩色が目を惹く。民芸運動家らは庶民の日用品でこれほどまで装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと強調した。
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戦後
壺屋地区は幸い、大戦で沖縄全土が焦土と化す中、比較的軽微な被害で澄んだ。再興に従って、壺屋焼も徐々に勢いを取り戻す。しかし、窯は市街地に集中しているため、今度は薪窯による煙害が深刻な問題となった。後に市は公害対策のため薪による窯使用を禁止、窯場はガス窯への転換を余儀なくされ、伝統的な技法を失った壺屋焼は岐路に立たされた。
折しも、基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村が窯元の積極的な誘致を行っていた。読谷村は元々、ミンサー、花織など文化が根付いた地で、文化奨励に積極的だったこともあり、加えて読谷周辺は原料となる良質の陶土が豊富であった。そして薪窯の設置にも柔軟に対応したことで金城次郎初め、多くの陶芸家たちが壺屋を離れ、読谷村に集まり、陶芸村を作ったのである。これが読谷村が第二の壺屋焼の故郷と呼ばれる所以で、現在も40ほどの窯元が集まっており、「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっている。また、読谷で作られた壺屋焼を読谷壺屋焼と呼んでいる。抑も、壺屋焼のルーツを辿る窯元のいくつかは、元々読谷の地にあったこともいわれ、300年ぶりに故郷に回帰した、と考えることもできる。今日では壺屋地区と読谷村以外にも窯元が分散しており、およそ100ほどの窯元がある。
壺屋焼は大きく分けて「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がある。
荒焼(アラヤチ)
14世紀?16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、かなり見た目は荒っぽい。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれる。また、魔除けで知られるシーサーもこの荒焼の一種である。
上焼(ジョウヤチ)
17世紀に入ってから、国の殖産のため薩摩から陶工を呼び寄せ焼かせた絵付陶器。陶土に白土をかぶせて化粧し、それから色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し、釉薬を掛けて焼成したもの。用途は抱瓶(携帯用の酒器)、カラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢など日用品が焼かれた。前述の荒焼に対して装飾性が強いが、決して上流階級だけの代物でもなく、庶民向けの民芸品だった所に民芸運動家らは驚き、絶賛したという。