2009年06月26日

1912年の中華民国成立当初は経済状況は

1912年の中華民国成立当初は経済状況は、清朝の対外賠償金を継承し、また鉄道や税関などの収入源を賠償金の担保として列強の支配下に置かれていたため危機的な状況にあった。

また建国当初の政争に加え、中国共産党との対立、更には日中戦争と国内での混乱が続いたことで更に経済状況が悪化し、物資が軍需用として優先使用され、その物資の輸送も限定された交通手段に頼っており国民経済は困窮を極めた。

日本の敗戦後は特に満州及び台湾地区では日本が残した資産を活用した工業化などによる経済建設を計画したが、まもなく開始された国共内戦により経済政策の実施は頓挫、また中国国民党が行った紙幣の乱発による急激なインフレなどで台湾地域の国民経済は崩壊の淵に立たされることとなった。

1949年に台湾に移った国民政府は「大陸反攻」を実現すべく国力の充実を図り、経済方面でも乱発した貨幣(中国国民党政府軍が発行した旧台湾ドル)を廃して新台湾ドルを発行しインフレを抑制、傾斜生産方式を採用した工業化を図ると共に、冷戦下のアメリカからの経済援助を活用しての経済政策を実施、それまで農業と農業関連の加工業が主であった台湾地区の経済を軽工業、やがては重工業へと転換させることに成功し、現在ではアジア有数の先進工業国としての地位を確立、特に、マザーボードや液晶、レーザーモジュールやPCなどの高度な技術開発力を必要とするIT関連や、自動車や家電製品をはじめとする製造業、海運や航空業でその強みを発揮し、世界トップクラスの外貨準備高を擁する経済大国へと変貌している。
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2000年代以降は中華人民共和国やインドなどの、低賃金の単純労働力を提供する発展途上国の台頭によって、高度な開発、生産力を必要としない製造業においては工場の海外進出に伴う産業の空洞化が進行したが、これに対し政府はITへの更なる投資と併せて、バイオ産業などより高い技術を有す産業に重点を置く政策に転換しつつある。

また、華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も中華民国独特の強みである。アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。近年は高雄港や基隆港、台中港が中国大陸や東南アジア、および太平洋地域における海運の重要なハブとしての地位を獲得しており、コンテナ取扱高世界一を誇る一大海運企業である長栄海運などがそれを後押しする形となっている。

2009年06月10日

元号使用の歴史

『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが日本書紀には描かれている。文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。

南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)が独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した(建武元年、同2年は、南北共通)。

室町時代には特に足利3代将軍義満以降改元に幕府の影響が強まるが、一方で京都の幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗すると言う事態も生じた。

江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に介入することになった。

明治以前は、天皇の交代時以外にも随意に改元していたが、明治維新の時に一世一元の詔が出され、天皇の代毎に改元する一世一元の制に改めた(これにより甲子改元もなくなった)。旧皇室典範の廃止後、元号使用の法的根拠がなくなったため、論争を経て1979年に元号法が制定された。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、一世一元の制が維持された。
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明治改元の詔は「○○年を以て○○に改元する」という形式であったため、改元はその年の元日に遡って適用され、それ以後に書かれる書物では、改元前の月日のことでも原則として改元後の元号で書かれた(但し、現在と同様に改元の詔の日から適用するという説もある)。大正・昭和は改元の詔のあった即日(それぞれ1912年7月30日・1926年12月25日)から、平成は改元の政令が公布された翌日(1989年1月8日)から新元号が適用され、平成の第1日目が始まった(1989年1月1日〜1月7日の間は昭和64年であり、平成は適用されない)

2009年06月06日

壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区

壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器。現在では壺屋地区の都市化により壺屋地区の釜はほとんど電気釜となっている。

琉球王朝時代
琉球王朝は古くから交易が盛んで、東南アジア方面との交流が活発だった。そのとき、流入してきたのが南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器であり、琉球では主に酒器などを自足するため技術を学び、自国で焼き始めたといわれる。
しかし、1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵攻、薩摩藩に占領されるとともに、交易でも様々な制約を受ける羽目になった。そこで、17世紀に琉球王朝の尚貞王が産業振興目的で、地方に分散していた幾つもの窯場を市街の一角に固め、ヤチムンと呼ばれる焼き物街を作った。これが壺屋焼の草創である。そして薩摩で技術指導していた朝鮮陶工らを招き、焼き物の発展指導を促した。1671年には平田典通を中国に派遣、赤絵の技術を学ばせた。こうして壺屋焼は琉球随一の窯場として国内消費は勿論、外国との交易に一役買ったのである。なお、壺屋はヤチムンをそのまま日本語に訳した地名であり、沖縄が日本に支配された時名付けられた地名である。
明治?昭和初期
明治に入ると壺屋焼は危機を迎える。本土、特に有田から安価な焼き物が大量に流入することになったからである。だが、そこに民芸運動の第一人者であった柳宗悦、浜田庄司らが来訪し、郷土の陶工、後に県下初の人間国宝にもなった金城次郎や新垣栄三郎らを指導し、技術を研磨させた。また、美を追究した民芸陶器として壺屋焼を東京や京阪神などに情報発信したことにより、壺屋焼は人気を仰ぎ、廃絶を免れた。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らに因るところが大きい。彼らは「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性を兼ねた日用雑器に光を照らした者たちであるが、とりわけこの壺屋焼には、本土にない鮮やかな彩色が目を惹く。民芸運動家らは庶民の日用品でこれほどまで装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと強調した。
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戦後
壺屋地区は幸い、大戦で沖縄全土が焦土と化す中、比較的軽微な被害で澄んだ。再興に従って、壺屋焼も徐々に勢いを取り戻す。しかし、窯は市街地に集中しているため、今度は薪窯による煙害が深刻な問題となった。後に市は公害対策のため薪による窯使用を禁止、窯場はガス窯への転換を余儀なくされ、伝統的な技法を失った壺屋焼は岐路に立たされた。
折しも、基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村が窯元の積極的な誘致を行っていた。読谷村は元々、ミンサー、花織など文化が根付いた地で、文化奨励に積極的だったこともあり、加えて読谷周辺は原料となる良質の陶土が豊富であった。そして薪窯の設置にも柔軟に対応したことで金城次郎初め、多くの陶芸家たちが壺屋を離れ、読谷村に集まり、陶芸村を作ったのである。これが読谷村が第二の壺屋焼の故郷と呼ばれる所以で、現在も40ほどの窯元が集まっており、「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっている。また、読谷で作られた壺屋焼を読谷壺屋焼と呼んでいる。抑も、壺屋焼のルーツを辿る窯元のいくつかは、元々読谷の地にあったこともいわれ、300年ぶりに故郷に回帰した、と考えることもできる。今日では壺屋地区と読谷村以外にも窯元が分散しており、およそ100ほどの窯元がある。

壺屋焼は大きく分けて「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がある。

荒焼(アラヤチ)
14世紀?16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、かなり見た目は荒っぽい。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれる。また、魔除けで知られるシーサーもこの荒焼の一種である。
上焼(ジョウヤチ)
17世紀に入ってから、国の殖産のため薩摩から陶工を呼び寄せ焼かせた絵付陶器。陶土に白土をかぶせて化粧し、それから色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し、釉薬を掛けて焼成したもの。用途は抱瓶(携帯用の酒器)、カラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢など日用品が焼かれた。前述の荒焼に対して装飾性が強いが、決して上流階級だけの代物でもなく、庶民向けの民芸品だった所に民芸運動家らは驚き、絶賛したという。

2009年04月23日

メルセン条約

メルセン条約(メルセンじょうやく)は、870年にフランク王国の領土の再画定を定めた条約。中部フランク王国の一部を治めていたロタール2世の死去に伴い、東フランク王国の王ルートヴィヒ2世と西フランク王国の王シャルル2世とが締結した。

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843年のヴェルダン条約により、フランク王国は三分割されていた。そのうちの中部フランク王国は855年のロタール1世の死に伴い、その3人の息子ロドヴィコ2世(ルイ2世)、ロタール2世、カール(シャルル)によってさらに分割され、それぞれイタリア、ロタリンギア、プロヴァンスを治めることとなった。863年にカールが死に、さらに869年にロタール2世が死ぬに至り、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が中部フランク王国の分割を取り決めたのがメルセン条約である。この結果、ロドヴィコ2世はイタリアのみの領有が許され、ロタリンギアは東フランクに、プロヴァンスは西フランクに組み込まれることとなった。

これによって、現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型が形作られたと言える。

2009年04月22日

エカテリーナ2世以降

ピョートル1世以降の18世紀中頃は、古儀式派と、拡大したロシア帝国におけるイスラームに対する施策が大変厳しい時代であったが、プガチョフの乱以降、エカテリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は少数民族に対する施策を緩和し、モスクとイスラームの学校設立を認めた。

古儀式派に対する施策も緩和された。すでにピョートル3世によって方針転換が図られていたが、エカテリーナ2世はこれを踏襲。グリゴリー・ポチョムキンは特に古儀式派に好意的であった。1769年には古儀式派信徒が裁判で証人を立てることを認め、1782年に2倍の人頭税を廃止、公文書において「分離派」(ラスコーリニク)ではなく「古儀式派」(スタロオヴリャーヂェツ)を使うことに決めたのもこの時である。1785年には諸々の市民権が与えられ、痛悔の自由も認めた。

一方、ルター派のピョートル3世を嫌ったロシア正教会がエカテリーナ2世のクーデターと即位に支持を与えたものの、女帝はロシア正教会に対しピョートル1世以来の政策を踏襲し、教会に対する統制と西欧化といった基本方針には変更が加えられなかった。このため、ピョートル1世ほどではないにせよ、エカテリーナ2世に対する現代の正教会からの評価はあまり高くない。

古儀式派は産業面において特に活躍していくこととなった。1771年末から翌年にかけてモスクワで流行したペスト禍に際しても古儀式派は慈善活動に熱心に取り組み、古儀式派の共同体はこの時代に大きく発展した。18世紀の女帝達は首都サンクトペテルブルクに工場を置くことを嫌い、産業省はモスクワに置かれモスクワは産業の中心であり続けたが、19世紀のモスクワでは古儀式派の経済活動が活発であった。

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この時代に正教会の聖歌に、無伴奏声楽という原則は揺るがなかったものの、イタリア的なポリフォニーを主とした西欧的な要素が取り入れられていく。すでにその萌芽は17世紀のウクライナに顕れていたが、ウクライナをロシア帝国が勢力下に置いていく過程でその文化的影響をロシア正教会は蒙ることになった。ヂフチャリョフ、ヴェーデルといった作曲家が18世紀後半の代表的聖歌作曲家である。無記名が伝統であった聖歌の世界に作曲家の名が登場して来る事自体が、西欧化のひとつの表れでもある。

ドミトリー・ボルトニャンスキー
18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名な作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキー(1751年 - 1825年)を、「正教会聖歌のイタリア化を完成させ、伝統的正教会聖歌を損なった人物」と看做すか、「正教会聖歌のイタリア化を一定のレベルに留めた、ロシア音楽・ロシア正教会聖歌の原点」と看做すかは、論者によって議論が分かれている[24]。ボルトニャンスキーは無伴奏声楽による、40曲以上の膨大な「コンチェルト」を作曲した。複数名の各パートのソロと、合唱とがハーモニーをなす形式である。これには日本語訳も存在しており(正教会の聖歌「我が霊よ 爾何ぞ悶え泣き叫ぶや」 - MP3ファイルのあるページ)、水の輪混声合唱団が毎年の定期演奏会で必ず取り上げている。ボルトニャンスキーの聖歌については正教会聖歌の伝統にどの程度則っているのかについては評価が大きく分かれるているが、後にロシアの合唱団がフランスでボルトニャンスキーの無伴奏声楽聖歌コンチェルトを歌うのを聴いたエクトル・ベルリオーズは、ボルトニャンスキーの聖歌に非イタリア的な独自性を見出して高く評価している[25]。また、ボルトニャンスキーは極めて高い蓋然性で古典聖歌の研究に携わっても居たとする論考も存在する[26]。少なくとも、ボルトニャンスキーが宮廷カペラの長に就任して以降、宮廷カペラの長をイタリア人が務めることはなくなったことは、ロシア音楽のイタリア化の停止を象徴するものではあった。ボルトニャンスキーは19世紀初頭まで活躍を続け、19世紀のロシア音楽文化の素地となり、ロシア聖歌史において今日に至るまで絶大な影響を及ぼしている。

2009年04月05日

目と重心

サイコロの目は、もとの六面体を凹ませることで作るため、目の分だけ各面から質量が取り除かれることになり、重心に偏りを生ませる。特に、最も数の差が大きい1の面と6の面が向かい合っているため、目の大きさが全て同一のサイコロは1の面側に重心が偏り、転がした際に6の面がもっとも上になりやすく、乱数発生に不都合が生じる。そのため、このことを考慮したサイコロでは、各面に刻む目の容積をその数に反比例させ、1の目が最も大きく、2はその半分、3は3分の1、…6は6分の1、という具合に徐々に小さくなるようにし、各面が失う質量を等しくすることにより、重心の偏りを避ける工夫がなされている。ただし、市販のサイコロの大部分はそこまで行わず、1の面の目だけが大きく他は同じ大きさといった程度である。この場合、最も上になりやすいのは5の面である。

また、各々の面において目の配置が点対称あるいは左右対称なのも、配置による重心の偏りをなくすための工夫である。
さらに、カジノゲームのクラップスや競技バックギャモンで使われるダイスでは、少しでも重心の偏りをなくすため、目を凹ませた後に素材と同比重の塗料(もしくは本体と同材質異色の材料)で埋めてある。また角も丸められてはいない。これらをプリシジョン・ダイス(precision dice、精密ダイス)という。

また、各目に穴を開けずに塗装するだけのサイコロもある。もちろん、このようなサイコロには重心の偏りがない。

不正なサイコロ [編集]
賭博で八百長が行われる際には、重心の偏りによって特定の数字が出る確率を高くしたサイコロが使われる。これを不正ダイス、またはイカサマサイ、グラ賽などと呼ぶ。実際にどの程度使われる手法なのかは定かでないが、博徒が仕掛けを見破ってサイコロを噛み砕くような、映画などにおける道具立てとしてもよく知られている。

不正には、主に次の2種類の手法が良く知られている。

ローデッド・ダイス(loaded dice)
内部にサイコロ自体の素材より比重の高い金属などを仕込み、重心を偏らせたもの。
シェイヴド・ダイス(shaved dice)
本来立方体であるべきものを、高さだけをわずかに短くすることにより、重心を偏らせたもの。
この他にも、蝋や水銀などを内部に仕込み、重心を自由に操作できるようにしたヴァリアブル・ローデッド・ダイス(variable loaded dice)、サイコロ内部に磁石を、テーブル内部にはコイル等の電磁石を仕込み、電磁石に通電させることで磁石を反応させ、出目を操作できるようにしたマグネット・ダイス(magnet dice)など、様々なものが考案されてきた。

水晶・ガラス・プラスチックといった透明な材質を用いたサイコロには、このような仕掛けがないことを示す役割もある。特にカジノでは、透明なプラスチック製のサイコロが用いられる。材質が透明であれば、一部に比重の違う素材を使っても、透かし見た際に屈折率の違いによって向こうが歪んで見えるため、すぐにわかってしまう。

日本製のサイコロ
サイコロの目の振り方は「天一地六東五西二南三北四」と決まっており、方角を示す道具としても使われる。「南三」でなく「北三」になっているサイコロもあり、「南三」を雌サイコロ、「北三」を雄サイコロと呼ぶこともある。また、舟になぞらえて「天一地六表三艫四面舵二取舵五」とも言う。サイコロの雌雄の見分け方は、1・2・3の面が集まる頂点を正面に置き、1→2→3の順に見たときに時計回りになるのが雄サイコロ、反時計回りになるのが雌サイコロである。

1の目を「ピン」と呼ぶ場合も多い。

「1926年に和歌山県の業者が天を示す1の目を赤く塗った。他社との差別化のためだったという。これが広まって日本製のサイコロの1の目は赤く塗られるようになった。」という俗説が流布されているが、根拠はない。他にも、日の丸を元にしたとする説もある。

遊戯用は1の目が赤く、賭博用は1の目が黒いという俗説があるが、まったく事実とは異なる。任侠映画に長く携わってきた東映京都撮影所でも、「時代考証から云っても黒です。」としている。

立方体でないサイコロ [編集]
普通のサイコロは乱数の範囲が1?6に限られるため、用途によっては不適当である。そのため、立方体ではない形状のサイコロも存在しており、これを多面ダイス、または多面体ダイスと呼ぶ。ちなみに、これらと併せて用いる場合、通常のサイコロは6面ダイスなどと呼ばれる。

通常これらの多面ダイスでは目は算用数字で記されているため、6と9とを混同しないよう付点(6.と9.)や下線(6と9)が併記されている。

これらの各種多面体ダイスは、頻繁に乱数処理を行うテーブルトークRPGに代表される卓上ゲームに多用されることから、ホビーショップなどで入手可能な場合が多い。

また、インドやネパールでは古い形態のサイコロである投げ棒(ロット)式のサイコロが現在でも使われている。

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2009年03月21日

大阪駅 - 青森駅間の寝台特急

1968年10月1日 ヨン・サン・トオと称されるダイヤ改正に伴い、以下のように変更。
新しく誕生した大阪駅 - 青森駅間の寝台特急(ブルートレイン)に「日本海」の愛称を譲り、大阪駅 - 青森駅間の急行列車の愛称が「日本海」から「きたぐに」に改称。従来「きたぐに」を名乗っていた昼行急行列車には「越後」(えちご)の名称を新たに与える。
大阪駅 - 富山駅間の寝台列車の名称を「金星」から「つるぎ」に変更する。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

大阪駅 - 富山駅間の座席電車の名称を「つるぎ」から「立山」(たてやま)に変更する。
1971年10月1日 大阪駅 - 富山駅 - 直江津駅 - 長野駅 - 松本駅 - 名古屋駅 - 大阪駅間を運行する臨時急行列車として、「アルペン」が運行を開始する。但し、この運行は翌1972年夏で終了する。
この列車は、直江津駅を境に夜行列車として運行され、運行形態としては、北陸本線を先に経由する列車を1号とし、中央本線を先に経由する列車を2号とする1往復の形態を取った。
1972年3月15日 「つるぎ」新潟駅まで運行区間を延長。
1972年10月2日 「つるぎ」が特急(ブルートレイン)に昇格。
1972年11月6日 下り「きたぐに」(青森行)において、北陸トンネル内で食堂車を火元とする火災が発生、犠牲者30名を出す。→北陸トンネル火災事故を参照。
この事故をきっかけに、地下鉄や長大トンネルを走行する車両の不燃化が進む。
1975年7月 「立山」の増発列車として「アルペン」が大阪駅 - 富山駅間で設定される。なお、このときは大阪駅発は夜行列車として運行された。
1973年10月1日 「きたぐに」大阪駅 - 青森駅間運行の普通座席車が12系客車化される。
ただし、12系客車には、グリーン車がないことから、「きたぐに」には主に一般形客車であるスロフ62を連結した。また、大阪駅 - 新潟駅間に連結した寝台車は10系寝台車のままで、新潟駅で増結・解結が行われた。
1982年11月15日 上越新幹線開通に伴うダイヤ改正のより、以下のように変更する。
「きたぐに」新潟駅 - 青森駅間をエル特急「いなほ」に系統分離し大阪 - 新潟駅間の運行となる。同時に「きたぐに」14系客車(座席・寝台の混結)化。
季節列車化した「立山」に583系を充当させる。
1983年 名古屋駅 - 新潟駅間に臨時急行「にいがた」が運行開始。
1984年 臨時急行「にいがた」が運行終了。

「きたぐに」583系化以降 [編集]
1985年3月14日 「きたぐに」、583系(12両編成)化。「立山」廃止。
1985年7月 「立山」の代替として大阪駅 - 富山駅間を運行する臨時急行列車として「アルペン」運行開始。
1986年11月1日 「きたぐに」10両編成となる。
1988年3月 「きたぐに」下り(新潟行)、新津 - 新潟間が快速列車に。
1992年2月 「アルペン」運行を終了する。
1994年12月3日 寝台特急「つるぎ」が臨時列車に格下げ。
なお、西日本の「シュプール号」として運転されたときは485系と併結運転された。この運転では北陸トンネル通過の関係で583系の貫通扉も活用された。
1996年12月 臨時寝台特急「つるぎ」廃止。「きたぐに」は、関西地区と北陸・新潟県を結ぶ唯一の夜行列車となる。
2000年 「きたぐに」使用の583系編成を一時的に変更。具体的にはサロネ581形車両を485系の電動車ユニットに組み替えた。なお、この際には同車両搭載のパンタグラフも使用された。
2004年10月23日 - 11月28日 新潟県中越地震の影響により、列車運休。
2007年3月18日 ダイヤ改正に伴い、「きたぐに」3号車自由席を禁煙席に変更。
2007年7月16日 - 9月12日、「きたぐに」新潟県中越沖地震の影響により列車運休。

列車愛称の由来など [編集]
(五十音順)
「アルペン」…アルプス山脈のドイツ語読み"Alpen"から。
「奥能登」…能登半島、能登国の奥という意味。
「きたぐに」…上にあるとおり、北陸地方を意味する「北国」(ほっこく)の訓読みから。583系電車のヘッドマークでは列車名と「佐渡おけさを踊る人と北陸地方」が表示される。
「金星」…天体の金星から。なお、「寝台列車は天体名から」という慣習があったことによる。
「立山」…富山県の立山連峰から。
「つるぎ」…富山県の立山連峰にある剱岳(つるぎだけ)から。ヘッドマークでは列車名と「そびえ立つ剱岳」が描かれた。
「にいがた」…目的地である新潟市から。

2009年03月06日

西部の奴隷制

1850年代に、1820年のミズーリ妥協に遡って生じていたのと同じ問題により、党派間の緊張関係が復活した。すなわち新しい領土における奴隷制であった。北部の者と南部の者はマニフェスト・デスティニーを異なる方法で定義するようになり、結合力としてのナショナリズムを蝕んでいた。

米墨戦争の後の獲得領土に対する議論の結果、1850年の妥協は生まれた。これには逃亡奴隷法の強制に関する規定もあり、北部では一連の小さな地域的エピソードを生み奴隷制に関する関心を上げた。

カンザス・ネブラスカ法
ほとんどの人はこの1850年妥協で領土問題が終わったと考えたが、1854年にスティーブン・ダグラスが民主主義の名のもとに問題を再燃させた。ダグラスはカンザス・ネブラスカ法を上程し、開拓者のために質の高い農業用地を解放しようとした。ダグラスはシカゴの出身であり、シカゴからカンザスやネブラスカに鉄道を敷くことに特に関心があったが、鉄道が論争点ではなかった。より重要なことはダグラスが草の根民主主義を信奉していたことであり、実際にその地に入植した者達が奴隷制を採用するか否かを決めればよいのであって、他の州の政治家がとやかく言うことではないと考えた。ダグラスの法案は領土議会を通じた住民主権で「奴隷制に関するすべての問題」を決めるべきであるとし、結果的にミズーリ妥協を実質的に撤廃しようとしていた。この法案に対して起こった民衆の反応は、北部諸州での嵐のような抗議であった。それはミズーリ妥協を撤廃する動きとして認識された。しかし、法案の提出後最初の1ヶ月の民衆の反応は事態の重大性を一般に伝えることができなかった。北部の新聞が当初この問題を無視していたので、共和党の指導者は民衆の反応の欠如を後悔していた。

結果的に民衆の反応は起こったが、指導者はそれを誘発する必要があった。サーモン・チェイスの「独立した民主主義者の訴え」が世論を立ち上がらせるために強く働いた。ニューヨークではウィリアム・スワードが取り上げ、他の誰も自発的には動かなかったので、自らネブラスカ法案に反対する集会を組織した。「ナショナル・エラ」、「ニューヨーク・トリビューン」および地方の自由土地新聞などの報道機関が法案を非難した。1858年のリンカーンとダグラスの討論は、奴隷制拡張問題に国民の関心を惹き付けることになった。

共和党の設立
北部の者達は北部の社会が南部のものよりも優れていると考え、南部が現在の境界を越えて奴隷の力を拡げようという野心を持っていると徐々に確信するようになり、紛争もあり得るという見解になりつつあった。しかし紛争は共和党の支配的立場を必要とした。共和党は辺境での「自由土地」を人気を呼ぶ感情的な問題として政治活動を行い、結成後わずか6年でホワイトハウス(大統領)を掴んだ。

共和党はカンザス・ネブラスカ法の立法化に関する議論の中で成長した。カンザス・ネブラスカ法に対する北部の反応が起こると、その指導者は新たな政治的組織を作るように動いた。ヘンリー・ウィルソンは、ホイッグ党が既に死んでいると宣言し、それを蘇らせる如何なる動きにも反対すると誓った。「ニューヨーク・トリビューン」のホレイス・グリーンリーは、新しい北部の政党の結成を要求し、ベンジャミン・ウェイド、サーモン・P・チェイス、チャールズ・サムナーなどがネブラスカ法案に反対する同盟について語るようになった。「ニューヨーク・トリビューン」のガマリエル・ベイリーは5月に反奴隷制側のホイッグ党議員と民主党議員の党員集会の招集に動いた。

集会は1854年2月28日にウィスコンシン州リポンの会衆派教会で開催され、ネブラスカ法案に反対する30人程の者が新しい政党の結成を要求し、党名には「共和党」が最も適当であると提案した(これはその動機を独立宣言に結びつけるためであった)。これらの提案者が1854年の夏に多くの北部諸州で共和党を結成するための指導的な役割を演じた。保守的および中道的な者達は単にミズーリ妥協を回復するか奴隷制の拡大を禁じるかを要求するだけで満足していたが、改革派は逃亡奴隷法の撤廃と、奴隷制が存在する州での急速な奴隷制廃止を主張した。「改革」という言葉は領土における奴隷制を拡大した1850年の妥協に反対する者達にも適用された。

しかし、後出しの恩恵も無く、1854年選挙では反奴隷制よりもノウ・ナッシング運動の方が勝利する可能性を示していた。カトリックと移民の問題が奴隷制よりも民衆に訴える力があるように思われたからである。例えば、ノウ・ナッシングズは1854年のフィラデルフィア市長選挙で8,000票以上の大差で勝利していた。ダグラス上院議員はそのカンザス・ネブラスカ法に対する大きな反論を受けた後ですら、民主党に対する基本的な脅威として、共和党よりもノウ・ナッシングズの方を上げていた。

共和党が自分達は「自由労働」を主張する政党であると主張すると、その支持者が急増したが、主に中流階層による支持であり、賃金労働者や失業者など労働階級の支持ではなかった。共和党が自由労働の美徳について褒めそやす時、それは単に「事を成就した」多くの者と実際にそうしたいと考えているその他多数の経験を反映しているだけであった。イギリスのトーリー党と同様に、アメリカの共和党は民族主義者、均質主義者、帝国主義者および国際人として浮上してきた。

まだ「事を成就し」ていない人々の中には、北部の工場労働者の中での比率が大きく伸びていたアイルランド移民が含まれていた。共和党はその秩序ある自由という構想に基本的に必要な自制心、克己心、および冷静さという性格がカトリックの労働者には欠けていると見なすことが多かった。共和党は、教養、信条および勤勉さには高い相関があると主張していた。それはプロテスタントの労働倫理の価値観であった。共和党支持のシカゴ・デモクラティック・プレスは、1856年の大統領選挙でジェームズ・ブキャナンがジョン・C・フレモントを破った後の社説に「自由学校が悩みのタネと見なされる所、宗教が疎んじられ、怠惰な浪費が支配的な所、そこではブキャナンが強い支持を受けた」と書いた。

民族と宗教、社会と経済および文化の断層線がアメリカ社会に走っていたが、党派色を強めていくことになり、上昇する産業資本主義に利益を見出すヤンキーのプロテスタントと、南部の奴隷所有者の利益に結びついた者に対する反対を強めたアメリカ的民族主義者の対抗という形になっていった。例えば、評価の高い歴史家ドン・E・フェーレンバッヒャーはその著書「1850年代における偉人、リンカーンへの序曲」の中で、イリノイ州では目立った選挙結果は開拓地の地域形態と相関があることを指摘して、いかに国の政治の縮図となっているかを述べた。南部出身者が入植した開拓地は民主党に忠実であり、ニューイングランドからきた者は共和党に忠実であった。さらに境界にあたる地域は政治的に中道であり、慣習的に力の均衡を図っていた。宗教、倫理感、地域および階級的同一性が縒り合わさり、自由労働と自由土地の問題は容易に人々の感情をあおった。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

「血を流すカンザス」における次の2年間の出来事は、カンザス・ネブラスカ法によって元々北部の一部の者に引き起こされた民衆の熱情を維持させた。北部出身の者は新聞や説教および奴隷制度廃止論者組織の力強い情報宣伝によって勇気づけられた。マサチューセッツ移民援護会社のような組織から財政的な援助を受け取ることも多かった。南部出身の者はその出てきた地域社会から財政的支援をしばしば受けていた。南部の者達は新しい領土で出身地の憲法で保障された権利を守ることを求め、「敵対的また破滅的な立法」を撃退するに十分な政治的力を維持しようとした。

大平原は綿花の栽培にはほとんど不向きであったが、西部が奴隷制に開放されることを要求した南部の者達は心の中には鉱物のことを考えていた。例えばブラジルでは、鉱業に奴隷の労働者を使って成功した事例があった。18世紀の中頃、ミナスジェライス州では金鉱に加えてダイヤモンドの採掘が始まり、ブラジル北東部の砂糖生産地域から奴隷を連れたその所有者が大挙して押し掛けた。南部の指導者達はこの事例を良く知っていた。それは既に1848年の奴隷制擁護派雑誌「デボウズ・レビュー」で奨励されていた。

2009年02月14日

とらいあんぐるハート

風芽丘学園2年生の相川真一郎が、幼ななじみである鷹城唯子や野々村小鳥、同級生の御剣いづみ、上級生の千堂瞳、留学生の菟弓華などと恋に落ちていく甘々ラブラブな日々を描いている学園恋愛ゲーム。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

相川 真一郎(あいかわ しんいちろう)
声:春野日和(DVD EDITIONのミニシナリオのみ)
主人公。2年C組。背が低く(公式では161cm)女性的な顔立ちをしており、さらには声まで女の子に近い為、よく女の子と間違われる。本人もそのあたりをとても気にしており、普段は舐められないようにガラの悪い格好をしている。一人暮らしで生活の必要もあり、この年代の男にしては珍しく料理が非常に得意で半ば趣味と化しており、暇を見ては小鳥と一緒に料理の研究に明け暮れる。一応空手の段持ちだが、他2作の主人公達とは異なって、特殊な能力や才能があるわけでなく、実戦で戦う力は持ち合わせていない。一方でたとえ相手が何者であっても受け入れてしまう度量と、青臭いまでに愚直で芯の強いまっすぐな性格の持ち主で、各シナリオにおいてヒロインを精神面から支えることとなる。
鷹城 唯子(たかしろ ゆいこ)
声:岩城由奈
2年A組。相川真一郎と野々村小鳥の幼馴染。天真爛漫で普段はぼけっぷり全開、甘ったるい独特のしゃべり方が最大の特徴。物事のコツと要領をつかむのが上手いため、見た目の印象に反して、学業成績は優秀。真一郎とは幼少時代に空手道場で知り合う。中学時代に護身道[1]に転向し、空手の素地と天性の運動神経で急成長するが、道場を出るととたんに気弱になってしまう。そのため部長の千堂瞳に言わせると性格的な問題から実力を出し切れていないという。身長が女性としてはかなりの大柄(公式では174cm)なのが密かにコンプレクスとなっている。家事は苦手で、しかもとてつもない大食らいである。ゲーム6編9作品[2]すべてに登場した唯一の人物でもある。
野々村 小鳥(ののむら ことり)
声:不明 ※DVD EDITIONでは早乙女かな
2年F組。相川真一郎と鷹城唯子の幼馴染。父子家庭に育ち、ジャンルを問わず料理が得意。真一郎にとっては料理の師で、3日以上彼女の料理を食べないことは稀。極度の人見知りで友人がほとんどおらず、オプションと言われるほど真一郎にくっついて行動するが、なぜか真一郎の知らないところで千堂瞳や綺堂さくらと交友関係を結んでいたりもする。とても小さいため(公式では144cm)小学生と間違えられることが多く、大きなコンプレックスになっている。歌は非常に上手く、持ち歌は『ちいさなぼくのうた』(とらハ1の主題歌)。非現実的なヒロインの多いとらハシリーズの中にあっては珍しい、ごく普通の女の子である。
御剣 いづみ(みつるぎ いづみ)[3]
声:不明 ※DVD EDITIONでは山咲ちはる
2年A組で鷹城唯子の同級生。北海道旭川出身。相川真一郎の1年時の同級生でハードロック好きと音楽の趣味が合ったことから交友関係を持つに至る。真一郎とは男友達のような付き合い。ボーイッシュなさばさばした性格、凛々しい外見、動きやすいラフな服装から、真一郎とは逆にしばしば少年と間違われる。しかしながら心の奥底は非常に女性的。実は蔡雅御剣流の忍者で国家認定資格を持つ。家庭の方針により実家からの仕送りがほとんどなく、生活費を自ら稼きつつ、空いた時間に忍術修行の生活を送る苦学生。
綺堂 さくら(きどう さくら)
声:鳥居花音
1年B組。相川真一郎の後輩。身体が弱く構内で良く倒れるため、保健室や図書室に入り浸る。他人に対してややもすれば冷淡な態度を見せるが、その一方で心を開いた相手との絆は誰よりも大切にする。ドイツ系のハーフで帰国子女。そのこともあって酒豪だったりする。『とらハ1』における人気第1位。さらにはシリーズを通してもトップクラスの人気を持ち、DVD EDITIONミニシナリオではヒロインの一角を担う。また、『とらハ3』の月村忍は姪にあたり、家族に恵まれなかった忍のことを溺愛している。
実は「夜の一族」と称する吸血鬼と人狼のハーフで、普段は隠しているが獣耳と尻尾を持つ。霊感応、心理操作、不老長寿と数々の特殊能力を持つ上、人狼の血が混じることから指先から鋭い爪を出すこともでき、これを剣のように用いて接近戦闘をこなすことも可能と歴代キャラでも屈指の戦闘力を持つ。しかし、自らがこのように妖怪の一種であることが彼女のコンプレクスであり、かつて一族が人間に虐げられた歴史があることもあって、初対面の相手、特に男に対して警戒心を隠さない。
ただ、彼女自身は人間との共存を望む。そのため、吸血鬼でありながらほとんど人間の血を摂取してこなかったため、体質が虚弱でかつ身体的成長も遅れた。やがて春原七瀬の関係で真一郎から定期的な血液摂取が可能になるが、この結果、劇的なまでに成長を遂げた姿で後年、高町恭也の前に姿を現すことになる。
また、不老長寿の種族であることに対し神経質なまでの不安を抱える。皆が自分を残して先に逝ってしまうという将来起こりうる現実に怯えており、今まで述べてきたような特殊性もあって自分のことを残酷と割り切り、他者との係わり合いをつとめて避けてきた節がある。一種のツンデレと見ることも出来よう。
千堂 瞳(せんどう ひとみ)
声:西村ひな ※DVD EDITIONでは日向裕羅と表記
3年G組。鷹城唯子の部の先輩。護身道部主将で3年間無敗を誇る通称「秒殺の女王」。普段は聡明で優しいお姉さま扱いされており、強さも相まって女の子の取り巻きが多い。しかし、本性は大変な負けず嫌いでひたすら強さを追い求めているところがあり、部活動中は『鬼』と称されるほど厳しい。相川真一郎とは顔立ちが似ており、良く姉妹に間違えられる。なお、長崎出身で槙原耕介とは幼馴染の関係だが、過去に二人の間に起こった事件によって男性恐怖症となる。そのため、真一郎は初対面で男と判るや、いきなり投げ飛ばされてしまった。また『とらハ2』の神咲薫は同級生で無二の親友。
菟 弓華(と ゆんふぁ)
声:不明 ※DVD EDITIONでは浅野麻理亜、ドラマCD版や『とらハ3OVA』では七海レイ
ストーリーの後半である1月に転入してくる中国からの留学生。母方の祖父が日本人のクオーターでとりあえず片言の怪しげな日本語を話すことが出来る。大手家電メーカーの松菱電機が現地子弟の教育のため設けた学校に在籍していたが、そのまま松菱に就職するためには留学経験が要求されたことから来日。真一郎の隣席となり担任から世話をすることを申し付けられる。なぜか極度の人見知りのはずの野々村小鳥と真っ先に親友になり、やがて真一郎たちの交友の輪に取り込まれていく。なお、伊達眼鏡をかけ左手はケガでもないのに常に包帯を巻く。
上記の来日理由は実は真っ赤な嘘で、彼女の正体は「龍」というチャイニーズマフィアの構成員。コードネームは泊龍と言う。左手の包帯はその証である刺青を隠すのが目的。両親共に暗殺者で、物心ついた時からナイフや暗器の扱いを仕込まれ、9歳の時に最初の殺人を犯し、12歳の時には“仕事中”に目撃された者は目撃者を消せなかった場合、身内の手で処刑するとの組織の掟で実父も殺す。ある政治運動家の暗殺のため4人で組織した暗殺団の一人として海鳴に潜伏、2月8日に決起するが御剣家の妨害に遭い失敗。その際、いずみと真一郎に顔を見られ掟に従い二人を殺そうとするが、真一郎の体を張った説得の前に気持が鈍り、最後はいずみとの決闘に敗れる。
敗れた彼女は捕獲され、名義上死亡扱いとされた一方で司法取引を行い、「龍」の有力な情報を提供し御剣家の保護観察に移される。そのため学生生活に戻ることが出来、3年への進級も認められた。以来、いずみとはお互い戦友のような意識を抱き一緒に鍛錬する仲となるが、同時にいずみの兄・火影とも恋仲になり、蔡雅御剣流忍術伝授の申出と共にプロポーズをされる。しかし、自らの生き様は壊す方であり護るのは性に合わないとこれを断り、卒業と共に香港に渡って陣内啓吾率いる香港国際警防隊に入隊、『とらハ3OVA』の頃は第6小隊副隊長の地位にある。
表の世界で生きるきっかけを与えてくれた真一郎達には深く感謝しており、帰国後も海鳴を事実上の故郷として大事に思い続けている。また、後年、かつて自らが関わった「龍」に激しい恨みを持つ御神美沙斗と香港警防で同僚になるが、この時代の弓華の左手から刺青が消えていることもあり[4]、特に何事もなくお互い仲良くやっていたりする。
春原 七瀬(はるはら ななせ)
声:不明 ※DVD EDITIONではカンザキカナリ
旧校舎に時折現れる不思議な女の子。学校の指定にはない黒いセーラー服を着ている。性格は妙に明るいが、約束事を嫌がりはぐらかす態度を取ってばかりいる。『とらハ2』の十六夜が親友だが、その主である神咲薫は嫌悪する。DVD EDITIONミニシナリオのもう一角のヒロイン。
実は27年前に事故により校内で死んでしまい、恋愛を経験することなく死んだ悔しさから旧校舎に憑りついてしまった自縛霊がその正体。彼女の着ている黒いセーラー服はその当時の制服である。上記のような理由から、幽霊仲間の十六夜とは仲が良くても、退魔師である薫とは折り合いが悪い。
普通に触れ合うことが可能までに実体化可能な強力な幽霊だが、そのためには相手から霊力の補給が必要になる。相川真一郎は七瀬と知り合った結果、彼女に霊力を吸い取られてしまい生命の危機に陥ってしまう。最終的には真一郎が綺堂さくらに血液を提供し、人間でないため霊力を豊富に持つさくらが七瀬に霊力を補充するとの奇妙な食物連鎖関係が成立した後、真一郎達の卒業を見届け自主的に昇天する。それから10年後、幼稚園児として生まれ変わった七瀬は、真一郎と再会するのだった。なお『とらハ3』の高町なのはは、設定当初、高町七瀬という名前で生まれ変わりという裏設定を予定していたことが、後に原作者の都築真紀から語られた。『とらハ1』の七瀬のボツになったエンディングでは、「高町七瀬」と確かに高町姓であった。
井上 ななか(いのうえ ななか)
声:音乃菜摘
1年B組。千堂瞳や鷹城唯子の部の後輩で将来を嘱望される有望株。明るい元気娘だが、常識人なのがかえって災いして苦労性。また学業成績が悪く、文武両道を謳う護身道部にあって歴代部長の瞳や唯子に注意されてばかりいる。端島大輔の彼女との設定のため攻略できない。
祖父は浅草の煎餅屋で両親は共働きのいわゆる鍵っ子。小遣いが少ないのかなぜかいつも物入りで何らかの支払に追われており、中学生時より歳をごまかしあらゆるアルバイトに精を出す。スポーツを見るのもやるのも大好きで強豪校の風芽丘高校の動向に注目しあらゆる大会を観戦していたため、バスケの岡本みなみ、剣道の神咲薫、そして護身道の千堂瞳の評判を早いうちから耳にしていた。しばしばバイト中の彼女を見かけた槙原耕介に声をかけられたことがきっかけとなり彼女たちと知り合うが、特に自らが護身道を志していたことから瞳に強いあこがれを抱いており、耕介の紹介で瞳と出会ったことで彼女は風芽丘高校受験を決意する。
高校進学後はさっそく護身道部に入部、スピードに優れるなど素質があったため飛び級でいきなり初段になるが、秋の昇段試験を前に足を捻挫してしまい紺袴をはく資格を得る二段昇進を逃してしまう。そんな時、落ち込んだ彼女を慰めたのがバイト中に冷やかされたことで知り合った端島大輔であり、しばらく二人は付き合うが性格的に反りが合わない面があったため、『ナツノカケラ』の頃にはドツキ漫才コンビのような関係に後退してしまう。
高校入学後も部活にバイトにと忙しい日々を送る反面、学業の方はついおろそかにしがちのため低空飛行を続け瞳や唯子に注意されてばかりいた。そんな折、高校2年時に始めたラジオ局の ADのバイトが縁で高卒でマスコミへ飛び込み、キャラを生かし『とらハ3』時代にテレビタレントとして花開く。
端島 大輔(はしじま だいすけ)
声:浜田登(DVD EDITIONのミニシナリオのみ)
相川真一郎の悪友でクラスメート。井上ななかの彼氏。

2009年01月27日

ブラックホーク(Blackhawk)

向けに開発した夜間・全天候型迎撃戦闘機。愛称はブラックホーク(Blackhawk)。カーチス社が開発した最後の戦闘機でもある。

本機は当初、ジェット攻撃機 XA-43として第二次世界大戦中に設計されていたものであった。1945年2月にアメリカ陸軍航空隊がP-61の後継となる夜間・全天候型戦闘機を要求すると、それに合わせて設計に変更が加えられ、夜間戦闘機としてXP-87の開発が開始された。なお、XA-43は1945年11月に開発中止となっている。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

直線翼の複座ジェット戦闘機であり、エンジンは2基を一まとめにし主翼の中ほどに装備している。水平尾翼の位置は、垂直尾翼の中ほどにある。座席の配置はサイドバイサイドである。武装は、機首に20mm機銃4門と尾部に12.7mm機銃2門を装備する計画であった。当初案には20mm機銃4門を機首の旋回機銃とする案もあった。

XP-87は1947年8月に完成し、初飛行はミューロック乾湖で1948年3月5日に行われた。1948年6月に名称はXF-87に変更され、戦闘機型のF-87Aが57機、写真偵察機型のRF-87Aが30機発注されている。F-87Aでは、エンジンをJ34(推力:1.3t)からJ47(推力:3.2t)に変更する予定であった。しかし、P-61の更新機としてはノースロップF-89が採用されたため、本機の開発は同年10月10日に中止となり、2機の試作機はともにスクラップとして処分された。

概要
乗員:2名(パイロット、通信士)
総生産数:2機
寸法
全長:62 ft 0 in (18.9 m)
全幅:60 ft 0 in (18.3 m)
全高:20 ft 4 in (6.2 m)
翼面積:55.7 m2(600 ft2)
重量
空虚重量:25,930 lb (11,760 kg)
最大離陸重量:49,900 lb (22,600 kg)
動力
エンジン:Westinghouse XJ34-WE-7 ターボジェットエンジン × 4
推力:3,000 lbf (13 kN)
性能
最大速度:600 mph (970 km/h)
航続距離:1000 miles (1,600 km)
実用上昇限度:41,000 ft (12,500 m)
馬力荷重:0.12
武装
固定武装:20mm機関砲 × 4、12.7mm機銃 × 2(計画のみ)

F-86はアメリカ合衆国の航空機メーカーノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。愛称はセイバー(Sabre)である。

アメリカ空軍をはじめ、多くの国で採用されたジェット戦闘機。第1世代ジェット戦闘機に分類される。初飛行は1947年。

武装は当初機関砲のみであったが、後にミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性を実証し(ミサイル万能論)、9,860機が製造された。

1980年にポルトガル空軍機の引退により、全機が退役した。

開発
第二次世界大戦末期ノースアメリカン社は艦上ジェット戦闘機案NA-134をアメリカ海軍に提案していた。これを受けて、1945年1月1日、アメリカ海軍は艦上ジェット戦闘機XFJ-1の開発を発注した。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。この機体の開発を受けて、アメリカ陸軍航空隊は1945年5月23日に、XFJ-1の陸上型XP-86の開発を発注した。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国はドイツ国内の占領地から大量の航空機の先進的実験データを得た。このデータを基にノースアメリカン社は、開発中のXP-86の設計を変更し、P-51から流用した主翼・尾翼に代えて、新設計の後退翼を採用した。試作機XP-86の初飛行は1947年10月1日。初飛行前から、性能が期待されたためにP-86A-1として陸軍航空隊に採用された。

この後、陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍となり、それに伴って使用する航空機の命名法が変更された。陸軍航空隊の戦闘機はPから始まる一連の番号(Pursuiter―追撃機からとられた)が振られていたが、1948年6月から戦闘機にはF(Fighter―戦闘機からとられた)の文字を与えるようになった。そのため、P-86AはF-86Aと改称された。

内部の様子主翼は低翼配置の後退翼であり、涙滴型のコックピットを持つ。ノーズ・インテイクであり、ノズルは機体末端に付けられている。

機銃はインテイク周辺に集中装備となっている。

生産の途中で空力的に様々な改良を受けており、E型以降は全浮動式(オールフライングテイル)の水平尾翼を装備し、主翼についても境界制御型と前縁スラット型の2種がある。

沿革
F-86の名を上げたのは朝鮮戦争における活躍であった。国連軍が朝鮮戦争に参加した当初、金日成の朝鮮人民軍は本格的な航空兵力を持たず、海軍の艦載機グラマンF9F パンサーや米空軍のリパブリックF-84G、ロッキードF-80 シューティングスターなどの直線翼を有するジェット戦闘機、果てには第二次世界大戦中に活躍したF-51DやF4U コルセアが活躍出来る程であったが、中国の抗美援朝義勇軍が参戦すると、鴨緑江を越えて中国軍のMiG-15が飛来するようになり、直線翼のジェット戦闘機では抗しきれないと判断した米空軍は急遽、F-86を投入し、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。

結果、投入から休戦までの約二年間に損失78機に対し、撃墜数約800機と言う、実に10対1の戦果を上げた[2]。その後、その優秀性からF-86は世界各国で採用された。

ミサイル空中戦の先駆
空対空ミサイルが初めて実戦で発射され、撃墜を記録したのは1958年9月24日金門馬祖周辺の台湾海峡において、中華人民共和国の人民解放軍と台湾(中華民国)空軍との交戦とされている。この戦闘において、台湾空軍はアメリカから供与されたAIM-9 サイドワインダーを装備したF-86F戦闘機をもって人民解放軍のMiG-17F(またはJ-5)と交戦、11機を撃墜した。

F-86A
カリフォルニア州サンタ・ローザで、屋外に展示されているRF-86F
ドレスデンで展示されるドイツ空軍のカナディア製F-86
F-86D
セイバードックの愛称は機首の形状からな名付けられた
F-86HXP-86
試作機。3機製造。ノースアメリカン・モデルNA-140。
F-86A
旧称P-86A。554機製造。
DF-86A
無人標的機。
RF-86A
偵察機型、F-86Aより改装。11機改装。
F-86B
A型を改良、大型タイヤと燃料タンクを装備する型。188機発注も計画中止。
F-86C
空気取り入れ口を側面に移してNACA型インテークにするなど機体を大幅に改造。後にYF-93Aに名称変更。「侵攻戦闘機計画(penetration fighter)」の競合(XP-88、XF-90)に参加したものの不採用。試作機2機製造。
YF-86D
全天候戦闘機型の試作機。開発当初はYF-95Aの名称であったが、朝鮮戦争による財政悪化のため、F-86の派生型として採用に至る。2機製造。
F-86D
全天候戦闘機型。F-86を名乗るものの、A型までとは外見から性能まで異なり、部品の共通率も20パーセントにとどまる。その外見から「セイバードッグ」と呼ばれている。大きな特徴は対空レーダーを備えたために飛び出して鼻のように見えるレドーム、ほかのF-86よりもさらに鋭角に後退した翼などである。レーダー搭載戦闘機としては初の単座機であり、操縦もレーダー操作もひとりで行わねばならず「手が3本必要」とパイロットを嘆かせた。性能面では、アフターバーナーを備えて速度を増している。この機体は当時、脅威を増しつつあったソ連の爆撃機を迎撃するため開発され、主武装は「マイティマウス」24連式空対空ロケット弾(無誘導)のみとなっている。なお、フィアット社が開発したFIAT G.91は本機の図面を参考に開発された。2,504機製造。
F-86E
全遊動水平安定尾翼を導入した型。456機製造。E-1、E-5、E-10、E-15のサブタイプがある。朝鮮戦争の影響により、カナディア社製セイバーMK.2をE-6型として60機購入。
F-86E(M)
イギリス空軍を始めとするNATO向け機体。
QF-86E
カナダ空軍向けのセイバーMk.5を標的機に改造した型。
F-86F
エンジンをJ47-GE-27(推力 2.7t)に強化し、「6-3翼」を導入した型。「6-3翼」とは、主翼の前縁を6インチ、翼端を3インチ延長し、前縁スラットを廃止、境界翼としたものである。F-1、F-5、F-10、F-20、F-25、F-26、F-30などのサブタイプがある。1,800機以上が生産され、三菱重工でもライセンス生産された。
QF-86F
航空自衛隊より返却されたF-86Fをアメリカ海軍向けの標的機に改造したもの。50機改造。
RF-86F
F-86F-30を偵察機に改造した型。航空自衛隊でも18機が同様の改造を受けた。
TF-86F
複座練習機型。F-30型より1機、F-35型より1機改造。計画中止により不採用。
F-86G
D型にJ47-GE-33エンジンを搭載したもの。406機が生産されたが、後にD-60型に改名された。
YF-86H
戦闘爆撃機型の試作機。エンジンの強化や燃料タンク容量の増加などが行われた。2機製造。
F-86H
戦闘爆撃機型。エンジンはJ73-GE-3(推力 4.0t)を使用。473機製造。低高度爆撃システム(LABS)や核爆弾投下システムの搭載が行われている。
QF-86H
H型を無人標的機型。29機が改造され、アメリカ海軍で使われた。
F-86J
F-86A-5-NAにオレンダ社製のエンジンを搭載したもの。カナダ空軍向け。計画中止により不採用。
YF-86K
D型の武装を空対空ロケット弾ではなく、機銃に変更したもの。2機を改造により試作。
F-86K
D型の武装を空対空ロケット弾ではなく、機銃に変更したもの。NATO諸国で使用された。ノースアメリカン社で120機、フィアット社で221機製造。
F-86L
D型の改良型。データリンクなどを始めとする電子装置の改良、主翼の改良などを行った。981機改造。
セイバー Mk.2
カナダのカナディア社製。E型相当。290機製造。
セイバー Mk.4
カナディア社製。438機製造。
セイバー Mk.5
カナディア社製。370機製造。
セイバー Mk.6
カナディア社製。655機製造。
CA-27
オーストラリア・CAC社で製造された型。112機製造。
FJ フューリー(F-1)
アメリカ海軍向けの艦載機。正確に言うとFJ-2〜4までがF-86の派生型である。FJ-1はF-86の採用に先立ってアメリカ海軍に採用された戦闘機である(詳細は上記・開発の欄を参照)が、低性能のため実戦機としては使用されず、練習機として使用された。後に改良されたF-86が空軍において素晴らしい性能を発揮したのを見て、海軍もほぼ同じ機体をFJ-2〜4として採用している。1962年の命名規則改正でF-1に呼称変更。
その他:ユーゴスラビアにおいてF-86Dを偵察任務に改造した独自の機種が開発された。なお、同国は社会主義国でありながら独特の中立政策を採ったため、1950年代にF-86やF-84、T-33などを米国から供与された経緯を持つ。

日本
展示されるF-86F-40「旭光」日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、全天候型戦闘機としてF-86Dを122機配備した。航空自衛隊が運用したF-86Fは、主翼前縁に自動スラットを装備し、両翼端を12インチ延長した6-3ウイングと呼ばれる主翼を持つF-86F-40が主力だった。F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改造された。自衛隊での正式な愛称は旭光(きょっこう)。

F-86F
1954年(昭和29)に誕生した航空自衛隊の主力戦闘機として、翌1955年(昭和31)にF-86F-25/-30が30機、F-86F-40が150機の計180機のF-86Fが米空軍から供与された後、日米の経費分担により、同年から1957年(昭和32)まで三菱重工業にてF-86F-40を70機ノックダウン生産、続いて国産品を使用したライセンス生産第1次生産分で110機、ほぼ全ての部品を国産化した第2次生産分(生産できない部品は米国の無償援助)で120機、1961年(昭和36)までに総勢480機が配備された。しかし、機数を急激に増やしたためパイロットや整備員の育成が追いつかず、供与機のうち45機を米国へ返還したため、435機の運用となった。-25/30仕様の機体は、後に三菱によって-40仕様に改修された。
航空自衛隊では、1956年(昭和31)1月10日に浜松基地にて第1、第3飛行隊が編成され、同年8月25日に同じく浜松基地で第2飛行隊が編成。その後、1961年(昭和36)までに第4、第5、第6、第7、第8、第9、第10飛行隊が編成された。
1962年(昭和37)から後継の主力戦闘機F-104Jが配備後は、F-86F飛行隊の解散が始まり、支援戦闘機として、要撃戦闘機としてのF-104Jの補完と、能力不足ながらロケット弾や爆弾を用いた対艦攻撃の任務についた。しかし、国産の支援戦闘機F-1の配備が始まり、1977年(昭和52)10月1日に第3飛行隊が、1980年(昭和55)2月29日に第8飛行隊が、11月13日に第6飛行隊がF-1に機種転換をしたことにより、実戦部隊からは退いた。旧F-86F部隊のうち、支援戦闘機部隊となった第3・第6・第8飛行隊以外はすべて解隊された。ブルーインパルスの初代機体でもあり、東京五輪にて大空に五輪旗を描いたことでも有名で、長く活躍したことから「ハチロク」と呼ばれて親しまれた。最後までF-86Fを運用していた入間基地の総隊司令部飛行隊では、1982年(昭和57)3月15日に引退セレモニーを実施し、全機退役した。
RF-86F
F-104J/DJの導入によって余剰となるF-86Fのうち、18機は写真偵察機のRF-86Fに改造され、1961年(昭和36)11月6日から1962年(昭和37)3月にかけて引き渡された。オリジナルのRF-86は主翼が-30仕様だが、航空自衛隊では-40を改修した。偵察航空隊第501飛行隊と航空総隊司令部飛行隊に配備され、RF-4Eの整備によって退役した。
F-86D
日本が初めて得た全天候戦闘機型のF-86Dは、1958年(昭和33)から供与が始まり、1958年8月1日に第101飛行隊を編成後、1962年までに第102、第103、第105飛行隊の計4個飛行隊が編成、計122機が配備された。配備された122機のほとんどがF-102への機材変更で不要になった在日米軍の中古機体を供与されたものであった。電子機器に使用された真空管は湿度の高い日本で故障を繰り返し、自衛隊へのF-104配備や部品の枯渇もあって、運用は1968年(昭和43)までの10年間と言う短い期間であり、F-86Dを配備した部隊もすべて解隊された。ただ、本機の運用実績から、全天候戦闘機運用のノウハウを得る事ができたため、航空自衛隊にとっては極めて意義が高かったと言える。

全幅:11.3 m
全長:11.4 m
全高:4.5 m
主翼面積:26.7 m?
最大離陸重量:6,300 kg
エンジン:J47-GE-27
推力:27.1 kN
最高速度:570 kt
実用上昇限度:14,330 m
航続距離:1,026 nm
固定武装:12.7 mm M2機銃 6門
爆弾:最大 900 kg
乗員:1名

『追撃機』:朝鮮戦争を舞台にF-86装備の飛行隊の活躍を描く。米空軍による実機を使用した空戦シーンを見ることが出来る。なお、この作品で敵役のMiG-15に扮するのはF-84Fサンダーストリークである。
『ゴジラ』:1954年の第1作から登場。この後の昭和の東宝特撮映画でも、防衛隊(防衛軍=自衛隊)の航空兵力として登場。
また、「ウルトラシリーズ」や「昭和ガメラシリーズ」においても、航空自衛隊(防衛隊・防衛軍)の主力戦闘機として、F-104JやF-4戦闘機と共に、幾多の怪獣を迎撃した。『ゴジラ対メガロ』ではF-86Fのラジコンも武器として用いられている。
平成に入り、松竹制作の変身ヒーローもの『魔弾戦記リュウケンドー』にて、あけぼの町を防衛する戦闘機として登場した。
『今日もわれ大空にあり』:航空自衛隊浜松基地を舞台にした映画。公開当時(昭和39年)の航空自衛隊の主力要撃戦闘機であった。